スペース

昨年は、週末の入りには可能な限り日帰り温泉に出向き、翌日はさほど高くない山や森に足を運び、のんびりとした時間を過ごすことが多かった。

温泉などと聞くと贅沢なように思えるかもしれないが、その行きつけの温泉は閉館に近い時間に行くと料金も割引され、巷の銭湯の入浴料よりも安いくらいだ。そして閉館に近いとはいえ時間に追われ烏の行水になることもなく、ゆっくりと1時間は湯に浸かることができるのだから全くもって有り難い。

利用する客の数も次第にまばらになる頃、大きな湯船の中で仕事に疲れた身体を緩め、目を閉じ、塩分を含む湯の中で身体がゆっくりと浮き上がるのを感じる。

身体が心地良く湯とひとつになると、頭の中の澱もだんだんと溶けてゆく。不規則に揺れる身体と共に頭はさながら空洞になり、右の耳から入ってきた音が左の耳からこぼれ出てゆく。

なるがままの自分を、ぼんやりとした意識の中で味わう。

そんな頃に、大体いつも遠くから耳慣れた閉館のアナウンスが聞こえ、仕方なくゆっくりと目を開ける。

一時間強のささやかな癒しの時間である。

 

気温こそ低いが、この季節の森は青空の下で光に包まれている。遠くに見える山の稜線も、乾いた空気の中ではっきりとしている。

わずかに枝に残る葉は茶色く縮こまり、それでも陽の光に暖を求めて歯を食いしばっているかのようだ。

緑の葉を残す常緑樹は、冬の装いの始まる森の中で一段とその色を輝かせ、夏に訪れた時以上にひときわ自己主張をしているように見える。

たくさんそびえ立つ樹々の中でもより太い幹に掌を押し当て、身体から何かを送り込んだり何かが送り込まれたりするイメージをしばらく保つ。

太い幹は、この一瞬では身じろぎもしないが、長い年月でみれば変化しない日はない。身じろぎもせず変化し続ける命、その厳格さの前においてヒトは足元にも及ばない。

 

週末に可能な限り湯に浸かり森に足を運ぶのは、実は疲れを取るためだけではない。

一番の目的は、心身を緩めると生まれる余白のためだ。だがその余白は、もちろん目には見えない。

心と身体のどこかにポッカリと開くスペース。

このスペースこそが、明日へつながる唯一のプラットフォームであることは間違いない。

f:id:Jinendou:20240101234626j:image