最近どう?

最近どう?

「最近どう?」っていうのを、友人や、少し離れた親などに向けて問うことはあるけれど、「最近どうよ」と自分自身に問うことは、あまりない。

だがこの頃、それ、しなくてよいのかな?と思うようになってきた。

自分自身の年齢によるものかもしれない。コロナ以降、いつも身体のどこかがグズっているからかもしれない。

仕事のことで考えなければならないことが出てきたからかもしれないし、それ以上に、自分の人生の残り時間について真剣に向き合わなければならなくなったからかもしれない。

 

いずれにしても、自分と向き合うことは必要なことだ。

だが忙しいと理由をつけ、今は目の前のことだと視線をずらし、明日もあるからと先送りし、挙げ句の果てにはテレビのスイッチを入れてお決まりの現実逃避。

当然、宿題は頭の隅っこにいて思考の邪魔をするし、心の隙をついて何かと足を引っ張ろうとぶら下がってくる。

やはり毎日ほんのわずかでも、それとちゃんと顔を向き合わせなければ、心身の平静は訪れないようだ。

立ち止まって考えれば、そんなことは重々分かってはいるのだ、が。

 

秋晴れの連休を、自宅でゆっくりと過ごした。

出かけるのもアリ。そうすると思考からスッポリと仕事のことが抜け落ち、家事のようなルーティンも手放し、頭の中を空っぽにすることができる。そして不思議なことに、その空っぽになった頭に、今まで思いもつかなかったことが降りて来たりする。

だが自宅で過ごせば、当然のことながらルーティンはあるし、仕事のファイルも目に入る。頭の中は空っぽにはならない。

それでも心は休みたがると、それはそれで色々なものが見えてくる。

お隣と植栽で隔てられた猫の額ほどの外庭に、わずかな時間だけれども秋の陽射しが差し込んで、優しい色に輝いている。

庭に出る扉を開け外に出ると、爽やかな緑の香りに包まれる。夏から伸びていた雑草を摘み引き抜くと、なかなかの手応えとパツンという音と共に、更に豊かな緑の香りが舞い上がる。

陽射しの暖かさ、そして草の香り。

「ああ、私はここに在る」

そんな実感が心の中に湧き上がる。

 

「最近どうよ」

自分の中に在るはずの気持ちを、実感と共に感じる。それだけで良いのではないか。

その気持ちをなんとかしようなんて、土台無理な話なのだろう。

 

いつもの環境の中で、ゆっくり過ごす。

そんなことを意識した秋の日。

今日はそれで、十分だ。

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