「私も自然の一部なのだから」

3月29日の夜、私は花束と荷物を詰め込んだ紙袋を手に、無心を装い家路につきました。

駅ですれ違う人の中に、同じように花束を持っている人を見つけ、この人も今日で慣れ親しんだ職場を離れるのだろうかと勝手に想像し、見るともなく表情を伺って。

 

目の前に迫る4月、新しい何かが始まろうとしています。

ですが新しい何かには、期待と共に必ず不安があります。

まだ何も始まらない中に、あれこれと負の感情を持ち込み場を散らかしてしまう、そんな生き方を常としてきた私。

感謝を伝えた同僚に、その不安を悟られまいと笑顔をつくり、そして職場を出た後は心の空白から目を背けるために無表情という仮面を被る。

 

とうとう明日は、4月1日。

済ませておきたいこともあり、今日は午前中から外に出ました。

道に出ると初夏を思わせるような心地よい風が頬にあたります。歩みを進めながら足元に目をやると、待ちに待った暖かな陽射しを受け取った草花が青空を見上げるように顔を上げています。

 

その時、ふと思ったのです。

この草花はこの時季を待っていたのだ、この時が来るまでじっくりとその身を整えて。

そして風に乗って届く知らせを受けて、毅然と動きだすために。

それが生きた自然のリズムというもの。

さらに誰かの声が聞こえたような気がしました。

「同じ陽射しや風の知らせを私も受け取ろう。なぜなら、私も自然の一部なのだから」

 

すると不思議なことに、私の中にあんなにあった不安が、いつの間にか消えていたのです。

私と陽射しが、風が、草花がひとつになったと思えた時、私も生きた自然のリズムの中にいたのです。

 

明日を思い悩んでいた私。

その私を自然の中に連れ出し、生きるリズムに気づかせてくれた私。

私も自然の中にいる大切な命のひとつ、そう思うことで寂しさや苦しさが解けていきます。

自分を超えた大きな力の中にいることを感じ、その力を信じることで私を信じ、私はたった今を生きていることを身体全体で感じました。

 

まだ見ぬものを思い悩むのも私だけれど、たった今を生きているのも、紛れもない私そのもの、そう気づいた瞬間でした。

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「ありがとう」

やはり一人では折れそうになることが、まだまだあると思います。


そんな時、正直な自分を知ってもらえている人には、ちょっとだけでも甘えさせてもらって、今その時をやり過ごすことができれば、何とかまた新しい明日を迎えられることもあります。
すると、正直な自分で良かったという経験の積み重ねができます。

私達は辛い経験を積み重ね、それを誰にも話せず一人で抱え続けてきました。
今となっては、その一人で抱え続けてきた生き方こそが、生き辛さとなってしまいました。

 

でももう、一人で抱えなくてもいいのです。
その生き方は、変えられるのです。

あなたのことを話してくれたことに、そして私の話を聴いてくれたことに、心から感謝します。

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「受け入れる」

「物事をあるがままの姿で受け入れよ。起こったことを受け入れることが、不幸な結果を克服する第一歩である。」

私の想いや望みに依らず、私を取り巻く世界は変わってゆく。 突き詰めてゆけば、私自身も月日と共に変わってゆくのだから、意識の主体が変われば現実の全てが変わってゆくことになろう。
だが肥大拡張した意識は、変わることを拒絶する。それどころか、私は変わらないと信じようとさえする。だが、それこそが不幸の始まりである。


不幸の罠に絡め取られそうなタイミングで出会った言葉があっ た。

「物事をあるがままの姿で受け入れよ。起こったことを受け入れることが、不幸な結果を克服する第一歩である。」
ウィリアム・ジェームズ(1842〜1910)

マインドフルネスに関する書籍からの繋がりで偶然出会うこととなったこの言葉は、不幸の淵から身を乗り出して谷底を覗き込む私の襟首を掴み、捻じ曲がった意識を今ここという現実に向けてくれた。
「起こったことを受け入れる。」もしそれができなければ意識と現実は乖離し続け、今という瞬間は永遠に私の前に現れることはない。

例えどのような現実であったとしても、今ここを手にしていなければ、変化する自分自身を生きることは決して出来ないのだ。f:id:Jinendou:20240113225642j:image

 

 

 

スペース

昨年は、週末の入りには可能な限り日帰り温泉に出向き、翌日はさほど高くない山や森に足を運び、のんびりとした時間を過ごすことが多かった。

温泉などと聞くと贅沢なように思えるかもしれないが、その行きつけの温泉は閉館に近い時間に行くと料金も割引され、巷の銭湯の入浴料よりも安いくらいだ。そして閉館に近いとはいえ時間に追われ烏の行水になることもなく、ゆっくりと1時間は湯に浸かることができるのだから全くもって有り難い。

利用する客の数も次第にまばらになる頃、大きな湯船の中で仕事に疲れた身体を緩め、目を閉じ、塩分を含む湯の中で身体がゆっくりと浮き上がるのを感じる。

身体が心地良く湯とひとつになると、頭の中の澱もだんだんと溶けてゆく。不規則に揺れる身体と共に頭はさながら空洞になり、右の耳から入ってきた音が左の耳からこぼれ出てゆく。

なるがままの自分を、ぼんやりとした意識の中で味わう。

そんな頃に、大体いつも遠くから耳慣れた閉館のアナウンスが聞こえ、仕方なくゆっくりと目を開ける。

一時間強のささやかな癒しの時間である。

 

気温こそ低いが、この季節の森は青空の下で光に包まれている。遠くに見える山の稜線も、乾いた空気の中ではっきりとしている。

わずかに枝に残る葉は茶色く縮こまり、それでも陽の光に暖を求めて歯を食いしばっているかのようだ。

緑の葉を残す常緑樹は、冬の装いの始まる森の中で一段とその色を輝かせ、夏に訪れた時以上にひときわ自己主張をしているように見える。

たくさんそびえ立つ樹々の中でもより太い幹に掌を押し当て、身体から何かを送り込んだり何かが送り込まれたりするイメージをしばらく保つ。

太い幹は、この一瞬では身じろぎもしないが、長い年月でみれば変化しない日はない。身じろぎもせず変化し続ける命、その厳格さの前においてヒトは足元にも及ばない。

 

週末に可能な限り湯に浸かり森に足を運ぶのは、実は疲れを取るためだけではない。

一番の目的は、心身を緩めると生まれる余白のためだ。だがその余白は、もちろん目には見えない。

心と身体のどこかにポッカリと開くスペース。

このスペースこそが、明日へつながる唯一のプラットフォームであることは間違いない。

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夕暮れ時は

師走の週末。

藍鼠色の空に星がひとつ輝き始めたことに気づき、腕時計に目を落とす。

文字盤にはデジタルで「17:15」という数字が白抜きで浮き上がったが、私は「5時か…」と呟いた。

住宅街の中をゆく道はミミズのようにゆっくり蛇行し、なだらかな上り坂だった。

静かな道の両脇には、何軒もの家が肩を寄せ合っていたが、窓に明かりの灯る家は意外と少なく、人の気配が感じられなかった。

すると私はその道と街の景色が、染められた空の色と相まって、思考の中に突然差し込まれたサブリミナルなモノクロームの遠い記憶のように感じられた。

 

寂しさを、寂しさと自覚することもできず、その中にいた私。

その心の揺らぎを、言葉にすることもなく、乾いた瓶の底に沈めていた私。

とうの昔に鍵をかけられ、ただ時間だけが流れ過ぎ、幾層もの苔に埋もれた瓶。

 

夕暮れ時はさみしそう

とってもひとりじゃ

いられない

 

瞬きする程の間に、脳裏に流れた記憶の断片。

 

「ファイト〜」

不意にその時、ぼんやりとした闇に包まれた道の先から明るい声が聞こえた。それはこの道を向こうから歩いてくる二人の学生の声で、肩にラケットのケースを掛けているところから、おそらく部活帰りなのだろう。

二人はコロコロと笑い合い「ファイト〜」「ファイト〜」と練習中の掛け声を繰り返しながら歩いていた。

 

急に目の前の景色に色が差し込まれる。

ピントのボケた画面が目の前の現実にフォーカスし、我に返る。

夕食の準備をしている匂いと音が、不意に私の肩をたたく。

ゆっくりと光が点滅する2階の窓の奥に、クリスマスツリーの影が見える。

無機質に見えていた世界の歯車が、急に動き始める。

 

私はまだその上り坂の途中にいた。

私は「よし」と小さく呟き、結んだ口角をクイッと引き上げ空を見上げた。

そこには数分前に見つけた星が、さらに色を深めた空で輝きを増していた。

その星に向かうかのように、歩き出す足に力を込め、道の傾斜や地面の硬さを感じ、私は再び進み始めた。

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よせてはかえす

この半年ほど、

一人の作曲家の音楽にひたり続けている。

そのメロディーは、叙情的でありながら叙事的で、寂しさを感じながらそこに温かさを喚起させ、一つの作品の中に相反する複雑な機微を内包している。

耳から脳に届くその精緻な陰影によるものなのか、私の心はいつの間にか寂しさにも温かさにも味方しないニュートラルなところに落ち着いてゆく。

何はともあれ、穏やかな気持ちでいられることは、どのような状況にあっても私を助けてくれることは間違いないだろう。

 

その作曲家のメロディーは、なぜ私の心を平安に導くのかと考えてみた。

今、刺激的な音楽があふれる中で、そのメロディーはポジティブなメッセージや熱い想いを届けようとしていない。あえて言うならば、ナイーブで傷つきやすい心を表しているように感じる。にもかかわらず、その心には柔軟な芯が存在する。

随分前に『その後の不自由』という本を読んだが、その帯に書かれていた「 “ちょっと寂しい” が、ちょうどいい。」という言葉を思い出した。時々歌の詞としても現れるこの言葉。そうなのだ。この作品を言葉にするなら、この “ちょっと寂しい” 感じが、ちょうどしっくりくる。

 

もう一つ、ふと降りてきたのが「よせてはかえす」というイメージ。

その曲を聴きながら目を閉じると、瞼の裏に現れるのは海、大きく弓なりに広がる海岸線。そこでゆっくりと寄せては返す波は、頑なでありながらも優しさを感じ、時にはキラキラとした輝きに満ちている。

 

大袈裟な話になるが、少し前まで人生は一本の道のようだと感じていたが、今はその捉え方が少し変わってきた。

人生は、寄せては返す波のようなものではないか。

頑なに繰り返される波のように、そんな一日一日が明けては暮れ、暮れては明ける。だがその頑なな波も、ある朝はキラキラと輝いたり、夕暮れには優しい茜色に染められたり、風の中で冷たく真っ青に映ったり、忍び寄る闇とともに灰色に沈んだり。

それは正に、人生ではないか。

人生が道であれば、歩み続けなければ景色は変わらない。だが寄せては返す波であり海であれば、そこに精一杯いるだけでも、様々な日々が私に届けられるのではないか。

私は私のままでそこにいるだけで、豊かな気持ちになれるのではないか。

 

その作曲家の音楽は、寄せては返す波のようだ。

だがそれはありふれた一日のようでありながら、何かが少し変化し、やがてまた戻り、また少し変化する。そしてそれを繰り返しながら、優しさが心の奥深くに染み込んでくる。

 

ある対談の中で、音楽家はこう話している。

 

“ 音楽、音は一回性のもの

一回性のものは非常に大事

科学の価値観の真逆

科学は再現性

何度繰り返しても同じ結果を得られることに信を置くのが科学

音楽は一回しか起こらないから良い


そういうところにアウラがある

ヴァルター・ベンヤミン

“芸術は複製されるとアウラ(オーラ)が失われる”

そこに価値がある


今はその真逆に進んでいる時代

だから、一回性の問題は、いま真剣に考える必要のある問題 ” *

 

人生の波は、例え同じように見えても、同じ波が来ることは決して無い。

人生は、よせてはかえす一回性の波なのだ。

 

https://youtu.be/fe9LS22ZEUM?si=URK4r2gd2EBYA6Lu

NHKスイッチインタビュー「音楽家 坂本龍一 × 生物学者 福岡伸一」より

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最近どう?

最近どう?

「最近どう?」っていうのを、友人や、少し離れた親などに向けて問うことはあるけれど、「最近どうよ」と自分自身に問うことは、あまりない。

だがこの頃、それ、しなくてよいのかな?と思うようになってきた。

自分自身の年齢によるものかもしれない。コロナ以降、いつも身体のどこかがグズっているからかもしれない。

仕事のことで考えなければならないことが出てきたからかもしれないし、それ以上に、自分の人生の残り時間について真剣に向き合わなければならなくなったからかもしれない。

 

いずれにしても、自分と向き合うことは必要なことだ。

だが忙しいと理由をつけ、今は目の前のことだと視線をずらし、明日もあるからと先送りし、挙げ句の果てにはテレビのスイッチを入れてお決まりの現実逃避。

当然、宿題は頭の隅っこにいて思考の邪魔をするし、心の隙をついて何かと足を引っ張ろうとぶら下がってくる。

やはり毎日ほんのわずかでも、それとちゃんと顔を向き合わせなければ、心身の平静は訪れないようだ。

立ち止まって考えれば、そんなことは重々分かってはいるのだ、が。

 

秋晴れの連休を、自宅でゆっくりと過ごした。

出かけるのもアリ。そうすると思考からスッポリと仕事のことが抜け落ち、家事のようなルーティンも手放し、頭の中を空っぽにすることができる。そして不思議なことに、その空っぽになった頭に、今まで思いもつかなかったことが降りて来たりする。

だが自宅で過ごせば、当然のことながらルーティンはあるし、仕事のファイルも目に入る。頭の中は空っぽにはならない。

それでも心は休みたがると、それはそれで色々なものが見えてくる。

お隣と植栽で隔てられた猫の額ほどの外庭に、わずかな時間だけれども秋の陽射しが差し込んで、優しい色に輝いている。

庭に出る扉を開け外に出ると、爽やかな緑の香りに包まれる。夏から伸びていた雑草を摘み引き抜くと、なかなかの手応えとパツンという音と共に、更に豊かな緑の香りが舞い上がる。

陽射しの暖かさ、そして草の香り。

「ああ、私はここに在る」

そんな実感が心の中に湧き上がる。

 

「最近どうよ」

自分の中に在るはずの気持ちを、実感と共に感じる。それだけで良いのではないか。

その気持ちをなんとかしようなんて、土台無理な話なのだろう。

 

いつもの環境の中で、ゆっくり過ごす。

そんなことを意識した秋の日。

今日はそれで、十分だ。

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