よせてはかえす

この半年ほど、

一人の作曲家の音楽にひたり続けている。

そのメロディーは、叙情的でありながら叙事的で、寂しさを感じながらそこに温かさを喚起させ、一つの作品の中に相反する複雑な機微を内包している。

耳から脳に届くその精緻な陰影によるものなのか、私の心はいつの間にか寂しさにも温かさにも味方しないニュートラルなところに落ち着いてゆく。

何はともあれ、穏やかな気持ちでいられることは、どのような状況にあっても私を助けてくれることは間違いないだろう。

 

その作曲家のメロディーは、なぜ私の心を平安に導くのかと考えてみた。

今、刺激的な音楽があふれる中で、そのメロディーはポジティブなメッセージや熱い想いを届けようとしていない。あえて言うならば、ナイーブで傷つきやすい心を表しているように感じる。にもかかわらず、その心には柔軟な芯が存在する。

随分前に『その後の不自由』という本を読んだが、その帯に書かれていた「 “ちょっと寂しい” が、ちょうどいい。」という言葉を思い出した。時々歌の詞としても現れるこの言葉。そうなのだ。この作品を言葉にするなら、この “ちょっと寂しい” 感じが、ちょうどしっくりくる。

 

もう一つ、ふと降りてきたのが「よせてはかえす」というイメージ。

その曲を聴きながら目を閉じると、瞼の裏に現れるのは海、大きく弓なりに広がる海岸線。そこでゆっくりと寄せては返す波は、頑なでありながらも優しさを感じ、時にはキラキラとした輝きに満ちている。

 

大袈裟な話になるが、少し前まで人生は一本の道のようだと感じていたが、今はその捉え方が少し変わってきた。

人生は、寄せては返す波のようなものではないか。

頑なに繰り返される波のように、そんな一日一日が明けては暮れ、暮れては明ける。だがその頑なな波も、ある朝はキラキラと輝いたり、夕暮れには優しい茜色に染められたり、風の中で冷たく真っ青に映ったり、忍び寄る闇とともに灰色に沈んだり。

それは正に、人生ではないか。

人生が道であれば、歩み続けなければ景色は変わらない。だが寄せては返す波であり海であれば、そこに精一杯いるだけでも、様々な日々が私に届けられるのではないか。

私は私のままでそこにいるだけで、豊かな気持ちになれるのではないか。

 

その作曲家の音楽は、寄せては返す波のようだ。

だがそれはありふれた一日のようでありながら、何かが少し変化し、やがてまた戻り、また少し変化する。そしてそれを繰り返しながら、優しさが心の奥深くに染み込んでくる。

 

ある対談の中で、音楽家はこう話している。

 

“ 音楽、音は一回性のもの

一回性のものは非常に大事

科学の価値観の真逆

科学は再現性

何度繰り返しても同じ結果を得られることに信を置くのが科学

音楽は一回しか起こらないから良い


そういうところにアウラがある

ヴァルター・ベンヤミン

“芸術は複製されるとアウラ(オーラ)が失われる”

そこに価値がある


今はその真逆に進んでいる時代

だから、一回性の問題は、いま真剣に考える必要のある問題 ” *

 

人生の波は、例え同じように見えても、同じ波が来ることは決して無い。

人生は、よせてはかえす一回性の波なのだ。

 

https://youtu.be/fe9LS22ZEUM?si=URK4r2gd2EBYA6Lu

NHKスイッチインタビュー「音楽家 坂本龍一 × 生物学者 福岡伸一」より

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